ふとてんぺすと氏の日記を読んでいて思った事。

>『批判』と『攻撃』
てんぺすと氏は、ある話題をどこまでが『批判』でどこからが『攻撃』なのか、と言っていますが、わたしは『批判』と『攻撃』は同じ線上のものではないように思います。

『批判』という言葉は『批評し判定すること』という意味です。
つまり、悪く評価する事も良く評価する事も出来るのですから『批判』自体が『攻撃』であり得るわけです。
さらに、『批判』という言葉は『否判』(勝手に作った造語です)のように『判じて否定する』という悪い意味に取られがちです。

まぁそりゃそうですよね。
よい評価を書いたら普通それは『誉めた』って言いますから。

つまるところ、自分の書き込みが『批判』だと思っている時点でそれは『攻撃』である可能性を持っているということではないかと思います。

>なにが『攻撃』なのか

じゃぁ結局のところ『攻撃』って何なんでしょうか。
わたしは受け手の感じ方だと思います。

『批判』も『苦言』も『文句』も『嫌味』も『指摘』も全て『意見』です。
語り手の『意見』を受け手がどのように感じるかで『批判』が『文句』になれば『嫌味』が『苦言』になる事もあるのです。

掲示板に「ぶりっこだ」と書かれた。
それは書き手にとっては止めた方がいいという『苦言』だったかもしれない。
けれど、受け手がそれを『馬鹿にされた』と取れば喧嘩にもなります。

もちろん書き手にも問題がある場合があります。
「こういう書き方をしているんだからこれは『指摘』である」というような書き手至上の考え方です。
書き手の意図なんてそこに「これは意見です。喧嘩を売っているわけじゃありません」と注意書き書いたって通じない時は通じないものだと思います。

別にこれは掲示板や日記サイトのようなネットに限った話ではありません。
普通にしゃべっててもちょっとした勘違いで口喧嘩になることってよくありますよね。
媒体はなんだって関係ないんですよ。
書き手と受け手がいたらどんな時でも書き手の私情や意図は関係なく受け手が全てを決める。
それがコミュニケーションというものの本質ではないかと思います。

ネットという媒体は、視覚情報のみ、しかも文字情報のみの世界です。
相手と面と向かって話をする時には相手の表情が見えて、かつ声(音声情報)もあります。
「馬鹿」という言葉を書いた時にそれをどんな気持ちで言ったのかによって意味はずいぶんと違います。
声と表情があったって勘違いするのに、文字だけでどれだけ相手に気持ちが伝わるのでしょうか。

我々日本人は、他の国の人達よりも声や表情を使って言葉に言葉本来以上の意味を与えます。
文字だけの世界ではそれが無くなっているという事実をよく理解しないままネットの世界に足を踏み入れる人が増えていると思います。

…双希さんになら「まさにDTみたいなもんですよねー。」で通じそうな気が…。(^-^;

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